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2024-03-15 2009.11.21 京都講演会「日本」(5)


さてこれが、ヘブライ語とカタカナの比較、ほとんどソックリ
こんな事実ひとつ取ったって、ね、無関係だったら有り得ないんだよ
無関係だったら有り得ないのに、誰もここに触れない、つまりどう考えてもユダヤと日本とが繋がっていると分かってしまう部分については目をつぶる。で、ほかの曖昧な部分だけを取り上げて否定する、これが彼らのやり方

これ、菊の16家紋、御紋。どこにあるか? 皇居違います。エルサレムのテロデモンにあります。
これは、おなじく天皇家の紋章です。どこにあるか。イスラエルの観光ガイドブックの表紙にこれが載っています

こういう事なんだよ。これが真実、これが違うというなら、じゃイスラエルの観光客は一体なにをやってる
これはイスラエルのシンボルなんだよ。だからシンボルだから観光ガイドブックの表紙に載せてるんです
それがたまたま天皇家と一緒なんです。
こんな事さ、ちょっと調べればすぐわかる、だけど、誰もこれを話題にしない。話題にしたくない事情があるんでしょう。

さっきも言ったように
紀元前7世紀には北イスラエル王国は滅亡してしまった、そのあと、その国を無くした民はどう流れたか、何百年かかったか分からないけども、どこかに辿り着いた。そのひとつが、到着点のひとつが、ニッポンだったかもしれない、というか僕はニッポンであったに違いないとしか思えない。でなければこんな共通点があるわけがない。

お清め。
禊ですね、相撲という伝統的なスポーツにおいては塩を投げます
イスラエルでも塩はお清めの道具です
こういうお水でもって清める、これもユダヤ教でも同じようにやるそうです


はい、じゃ再開します
という事で、日本における古代ユダヤの痕跡というものをちょっといくつかあげてみると、
まず、京都の祇園祭というのはユダヤのシオン祭りに非常に酷似してると
いう事で、ノアの箱舟がアラルド山に漂着した7月17日に奇しくも山鉾行幸が行われると、いう事なわけです。

そして、山鉾の中のひとつには旧約聖書の内の創世記の物語であるところのイサクの嫁選びの状況が描かれてると
ホントに描かれてるんだから。それ以外なにもないんだから。イサクの嫁選びが祇園祭に出てきてるんです。これは紛れもない事実。

神輿とはつまりアークであって、神輿を担ぐ時の声であるエッサエッサというのはヘブライ語で運ぶという意味であると。剣山のふもとの神社にメノラーがあったと。そして祭器の場所もあったと、いう事から、エリコーヘンはおそらく剣山にアークが隠されているであろうと、そういう風に推測してる。

伊勢神宮というのは、ユダヤ教であるところの幕屋と全く同じように20年ごとに遷宮する。
実はあとで出てくるんですが、伊勢神宮の遷宮を決めたのは天武天皇という人なんです。天武天皇という人がまたややこしい人なんです。絡んできちゃうです、イヤと言っちゃいけないんだけど絡んできちゃう

それから鳥居が赤いのはさっき説明したように、羊の血を塗ると赤くなると、その時に使われた羊の血を塗るための道具が榊だった。
ひとつの仮説なんですが、ミカドという言葉は、ヘブライ語では、カド族の王様という意味だそうです
つまりカド族は10士族の内の一つ、それの王様の事をミカドという説があります。

テレビで非常に大衆向けのするようなユダヤ番組があったので

(省略)

という事で、古代ニッポンと古代ユダヤの関係を無視する事はほとんど不可能なんです。これを否定するにはかなり論理的な反論が必要なんですが恐らく誰も出来ないでしょう。という事で、まだまだ共通点はいっぱいあるんです。例えば、御宮参り、御礼参りじゃないですよ御宮参り、御礼参りは893がやる、どうして余計な事を言うんだろうな

御宮参り確か100日目でしょ。生まれて100日目に御宮神社に赤ちゃんを連れていく。これユダヤと日本だけ。
それからこの装束、これ神官の装束ですね神道のね、ここにフサがついてる。ユダヤもみんな同じなんだって。フサが極めて重要なんですって。

それからこれは、過越しの祭りの時に食べる種無しパン。つまり普通は酵母を入れて膨らませる。で、過越しのお祭りの時だけは酵母は入れちゃいけない。と決まってるわけ。つまりユダヤのお正月では膨らませないパンを食べます。ニッポンのお正月では膨らませないお餅を食べます。これはやっぱり酵母が入ってない。という事で、ユダヤの人達はお餅を見て、あ、これは、ユダヤ教で言うところのマッツァーであると。いう風に感じるそうです。

じゃさて、古代ユダヤ人ってどんな顔をしてたか?
(左絵:欧米が捏造した西洋風イエスキリスト)(右絵:髭毛深い)
まずこの人は良くしってるでしょ?(捏造キリスト)
じゃこの人誰でしょう(右絵:髭毛深い)分かる人いない?誰? これイエスキリスト。こっちが本物

これは(左絵)欧米社会でもって捏造されたイエスキリスト、
本物のモンタージュ写真はこれ。(右絵)イエスキリストはセムゴ族アジア人
浅黒く毛深い、こういう顔をしていたんです、じゃ現代で古代ユダヤ人の面影を一番よく残してるの誰か

ビンラディン

ビンラディンはおそらく、イエメンの伝統的なユダヤ人の息子であると
どういう事か
紀元前1世紀頃、このイエメンはシヴァ王国と言われていた、シヴァ王国とソロモン王とはいい関係にあった。
王様と女王様がなんかネンゴロになったって話もあるらしいんだけど。その時にイスラエルから職人さん、色んな職人さんがイエメンに移住してるんです、そのユダヤ人の職人さん達は今現在21世紀の今でもイエメンでコロニーを作って生活してるんですユダヤ人として、ところが外見はアラブ人とソックリなんです。だからアラブ人と区別がつかないところを利用してこういう方が、反ユダヤ偽装してるユダヤ人なんです、この方が実は2001の犯人を偽装する事によって亜米利加のユダヤ人達は、アフガニスタンやイラクを侵略する事が許されたんです。

このカラクリ、僕の言説の原点ですので、今日お帰りなりましたら僕の本を読むなりDVDを見るなりして頂ければ分かると思います。つまり、(右絵:髭毛深い)これがホントのユダヤ人。ところが今我々が目にするところのユダヤ人っていうのは、色の白い白人じゃないすか、何故かっていうと、彼らはオリジナルのユダヤ人じゃないんですよ。それこそ、コーカサス地方のちょっと南の辺りにあったトルコ族系の白人の国家であるところのハザール汗国という今はない国の民族なんです。彼らがユダヤ人を称してるけども、本当のユダヤ人はこうだったんです。

そしてニッポンに来たかもしれないユダヤ人というのも、(ビンラディンや右絵)こういう人達だったんです。
なんかちょっとアイヌにも似てるなっていう気がしないでもない

さて三種の神器というのがある、日本でも神道でもあるけども、ユダヤ教でもある。
ユダヤ教っていうのは、石版と杖と、もうひとつはマナの壺。
マナの壺っていうのは、放浪してる時に壺から食べるものがどんどんどんどん出てきて絶え間なく出てきた
その壺から食べるものを得て生きながらえる事が出来たという壺なわけです。

そのマナの壺ってのはこういう形をしている、耳みたいのが、下丸い。ここにもある、耳があって丸い、仁徳天皇陵、
仁徳天皇陵ってのは、三種の神器のひとつであるマナの壺の形を現してしてるであろうと
だってさ、わざわざ耳まであるんだよ、偶然でありえますか?
仁徳天皇陵を作るような時代ってのは、要するに古墳時代、つまり弥生時代が終わって古墳時代になって
その頃ってのはちょうど、イスラエルが滅亡して民が流浪して、漂着したぐらいの時に当たるんじゃないでしょうか、その可能性が大いにある、そのあと日本というところに定着して、もしかしたら大和朝廷を作ったかもしれない。その結果として、その末裔の天皇のお墓のひとつをマナの壺にしたのかもしれない。これは仮説です。わかりません。今度僕タイムマシンに乗って見に行って確認してきますけども現状では仮説

さて、ヘブライ語と日本語、これ面白い。
まず、天皇の事をスメラミコトと言う。これを古代ヘブライ語で言うと、シュメールの開拓者って意味に翻訳する事が出来る。開拓者、つまり、アメリカの西部開拓者で言えば、西部にはじめて行って、そこに国を作った町を作った開拓者の事なんです。ユダヤの人達からすれば、自分達の民族から日本という国に行って、そこを開拓して文明を作り上げた人間、それのリーダーという意味でスメラミコトと呼んだのかもしれないんです

そして大和という、我々のニッポンという国の名前の以前使われていた大和というのはもしかしたら、ユダヤ語でいうところの、ヤ・ウマト、神の民かもしれない、アラン語で解釈するとそうなる、ヤ・ウマト神の民

そして、神武天皇、初代天皇の、カムヤマトイワレビコノミコト、言うのですが、
これをヘブライ語で解釈すると、「ヘブライ民族から誕生した神の選民を集めた開拓者」という意味だそうです

もしこれをそのまま単純に理解すると
国家を失ったイスラエルがユダヤの予言に従って西アジアよりニッポンに移住を開始し、神武天皇のリーダーシップのもとに、ヤマトの地に結集して天皇家の歴史を築くことになった。いう風に考えられない事もない。
ただし、それをわたくしは断定する気はない。あくまでも仮説です、しかしながらこれを言っただけで、ぎゃーぎゃー反論する人が絶対にいる。それは何故か、権威を独占しておきたい人達は、自分達以外に、天皇家という自分達より上の権威があっちゃ困る。ね、戦後65年経って仁徳天皇陵を誰も発掘しようとしない、誰も入る事を許されない。ところが戦争直後、占領軍が入ってきて真っ先にやった事は軍隊差し向けて仁徳天皇陵掘ってるんです。
早速やってるんです。彼らは上陸したその足で仁徳天皇陵行ってるんですよ。それだけ重要な事だったんです。
つまり天皇陵を発掘すればそこからはユダヤの痕跡が出てくるんだよ、マナの壺の中からマナの壺が出てくるかもしれない

でもね。ここは京都です、京都というところは、アメリカ軍によって原爆の攻撃対象にされた事があるんです。
ところがおかしいなーと、アメリカ軍は戦争の間一貫して京都を爆撃しなかったじゃないかと、B29を使って爆撃しなかった。だからきっと京都の文化財を守るためにアメリカが崇高な精神でもって文化財を守ってくれたんだと、言ったら大間違い、とんでもない、京都言うのは盆地であると、従ってその中に原爆を落とせば、その原爆の威力というものを非常に分かりやすく結果を情報収集する事が出来る。従って通常爆弾で破壊しないでおいて、原爆で一気に破壊しようと考えていた。ところが戦争が終わってしまったし、ほかにも色んな事情があったんで、たまたま原爆は落とさないで済んだと。という事は彼らはもともと京都を原爆で破壊する予定だったの。なんで破壊したいのか? 京都が権威だから。京都が彼らよりも上の権威だから。彼らにとって忌まわしい伏見稲荷とか、二条城とか、京都御所とか、アショカ神社とか、八坂神社とも言うけども、そういったものがいっぱいあるわけ。ここには古代ユダヤの権威がつまってるの、この町には。だからこれを根こそぎ潰そうとした。
もちろんそれに反対する勢力もあった、ユダヤの中でもこれを残しておこうと思った人達もいたはずだ
やっぱり根こそぎ全部無くしてしまうという事に、やっぱり良心の呵責、宗教的なわだかまりを感じた人達もいたと思う。

ほんの2年か3年前にロックフェラーが東京に来た時に彼天皇に会いに行ってるんですね。おそらく天皇に会いに行ったのはつまり、ユダヤ教の面々と続くユダヤの祭祀のトップの末裔に会いに行った。という事であろうと。
2024-03-15 07:12 Permalink
2024-03-15 2009.11.21 京都講演会「日本」(4)

だからかと

という事は
知の先生はその辺の馬の骨じゃないんだと
旧約聖書にしっかりと名前の出てくるような
由緒正しい人間なんだ、だから
俺達ユダヤ人がいくら、似非ユダヤ人がいくら手を出そうと思っても
うまくいかないんだと、
いう事に早く気が付きなさいよ、アシュケナージ、
と、言いたいわけだ

ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち

僕のやってる事は、ね、神がかりなんです、これだけのね、背後関係があったんです
背後関係って言い方悪かったな(笑笑笑笑)

さっきちょっとチラッとお見せしたかったんだけども
エリコーヘンというのが、前の前ぐらいの駐日イスラエル大使
彼は、ニッポンに来てみて、え? 日本にはこれはユダヤの痕跡いっぱいあるじゃないかって事で
本職を放り投げて、日本のユダヤ伝説を調べるのに奔走しちゃったわけ、それでクビになったのかもしんないんだけども

それでもって彼は剣山に行った
剣山って言うとむかしーっから、アーク伝説があるじゃないですか
この間も僕ね、四国の講演会のあとに剣山登ったんですよ
あそこはね、不思議なところ、登っただけでわかる。あれっと思った。
頂上に行ってもそこではアークは感じなかった。
途中まで下りてきたら、あ、この下にあるなってそういう感じがした
アークはもしかしたらホントに剣山の中腹辺りの鍾乳洞の中に眠ってるかもしれない

で僕はねなにかそういうものがあると必ずね左手の薬指が震える。それが物凄く顕著だったから
なにか、
あのー、なにかあると薬指が震える。それから、背後に美しい女性が近づくとやっぱり震える。(笑笑笑笑)
なんか似たような電波を感じるだね。今日はも、さっきからビリビリしてる

さて、エリコーヘンさんが四国に行って見つけたのは、剣山のふもとにある神社で、こういう、紋章があるわけ
神社の紋章が、これを見て、あー、っつったの(エリコーヘン)
それ何かって言うと、この紋様、これとそっくり(メノラー)

真ん中にダビデの星があって、所謂燭台ね。
で、その脇にこのGWブッシュがいるのは当然、彼は隠れユダヤ人だから、こうやって当たり前

で、このデザインがここにあるわけ、これを見つけてエリコーヘンはアワアワアワアワとビックリしてまった

でそのあと、この神社の後ろへ行ってみたらば、所謂祭器の場所があった、お祭りをするような場所があった
そこへ行って愕然とした。これは間違いなくアークはここにあると彼は思ったわけ
要するにアークを祭るための祭器の場所がそこにあった。これはどう考えてもユダヤ式の祭器の場所だ彼は断言した。ということは本当に剣山にアークが眠ってるかもしれない

さて、これ、常にユダヤの民はアークを運んで、アークを安置する時はこういう幕でもって覆って、宮殿みたい、神殿みたいなものを作った。これを幕屋と言う。この幕屋というのは、当然ながら移動するために畳んで持ち運ぶわけ。で、実は、この幕屋と神社との構造がほとんど同じなわけ。どこが同じかというと、まず、神社というのは入る前に手を洗う。手水(てみず)場というか手水場(ちょうずば)というか、ユダヤも同じ。まず水で清める

そん次に。神社ってのは、本殿があって、本殿の前に拝殿があるでしょう? つまり、礼拝をする場所と本殿は違うでしょ? これもユダヤも全く同じ。

これが幕屋、幕屋って見てると、赤白のストライプになってる。どっかで見たことあるんだよね。
赤白のさ、お祝いの時の、なんて言うんだろう? 垂れ幕じゃなくて、それってさもしかして幕屋じゃないのかな思ったりもします

それから、お祓い。榊でもってなんかやるでしょう?
これね実はねユダヤも全く同じ事をやる。

で、これ。
エジプトからモーゼがユダヤの民をカナの地に送ろうとした時に、エジプトのラムセス2世という王様は、ちょっと待てと、お前達は役に立つから勝手に出て行っちゃ困るよ。言って、許さなかった。そうしたらモーゼは神に頼んで、ラムセス2世を懲らしめて下さい。

で、神に何を頼んだかってというと、その国エジプトの全ての長子、つまり長男を殺してしまう。ところがちょっと待てよ、そうなるとユダヤ人の子供も殺されちゃうじゃないすか。そこで見分けをつけるために、家の門に羊の血を塗りなさいと、羊の血を塗った家の子供は助かるようにした。それでユダヤ人の家はみな門に羊の赤い血を塗った。その結果として、神は区別が出来たのでその家の子供は殺さなかった。
エジプトの王の子供すら殺されたのに、

という事で、門に赤い色を塗るとどうなるかっていうと、

こうなるわけです(赤い鳥居の絵)

だから鳥居は赤いんです。

このね、神が長男を殺して回ったという時に、ユダヤの家だけは助けられたというのを、過越と呼びます。
そして過越しの祭りというのがユダヤ教徒にとって最大の最も重要なお祭りになってるわけです
これお正月ですある意味
過越しのお祭り=お正月

さて、これ。山伏。なんか変ですよね山伏って、頭にこんなのついてて、頭巾とか兜巾とか呼ぶんですけども
それとあのー、ホラ貝でもって、ぼー、とか吹いてる。これなんかあんまり日本的でないような気もするんだけども

実はこれと全く同じものがユダヤにあるんです
(絵:頭に四角いの乗せたユダヤ人)(絵:日本の山伏)
ユダヤの神官。これなんですかこれ、おんなじなんだよ
頭にトキンみたいなのがある
そして、ほら貝はないわねユダヤには、それで角笛吹いてるわけです

これ、ほら
(絵:頭に四角いの乗せたユダヤ人)(絵:日本の山伏)
おんなじゃないですか

(絵:別の頭に四角いの乗せたユダヤ人)
これなんかもっとはっきりしてるね。山伏とおんなじじゃないですか

イスラエルの滅亡と民の散逸
北イスラエル王国:紀元前722年、アッシリアにより滅亡。10士族が行方不明に。滅亡時の宗教は多神教
南ユダ王国:紀元前586年。新バビロニアにより滅亡

要するにユダヤ人達は、紀元前722年に自分達の王国を滅亡さしてしまったんです
この年にアシリアによって北イスラエル王国は滅亡してしまったんです
しかしながら民はどうしたか?
民はあちらこちらに逃げたわけです
そして、その時にいなくなった10士族というのは未だに行方不明なんです
どこへ行ったのか
イスラエル国としては一生懸命このいなくなった10士族というのを探してきたんです

で、世界中でその痕跡を持った人達を見つけて、ユダヤ人と認めてイスラエルへ帰国する事を許してるんです
例えば、ミャンマーから。色んなところから。
そして、彼らは当然ながらニッポンにもこの滅亡した民は来ているであろうと考えています

そういう中で、ある有名なユダヤ人がこんな言葉を残しています
「近代日本の発達ほど世界を驚かせたものはない。この驚異的発展にはほかの国と違った何者かがなくてはならない。果たせるかな。この国の歴史がそれである。この長い歴史を通じて一系の天皇を頂いてきたという国体を持っている事がそれこそこんにちの日本をあらしめたのである。わたくしはいつも広いこの世界のどこかに一か所ぐらいはこのように尊い国がなくてはならないと考えてきた、何故ならば世界は進むだけ進んでその間何度も戦争を繰り返してきたが、最後には闘争に疲れる時が来るでだろう。その時に人類は必ず真の平和を求めて、世界の盟主を挙げなければない時が来るに違いない。その世界の盟主こそは、武力やカネのチカラではなく、あらゆる国の歴史を超越した世界で最も古く、かつ尊い家柄でなくてはならない。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰東方、ニッポンに立ち戻らなければならない。吾々は神に感謝する、神が吾々人類にニッポンという国を作っておいてくれた事である」byアインシュタイン

このアインシュタインの言葉を捏造であるという風に必死に誹謗中傷してる人達がいます。
彼らは根拠がないと言っています
根拠はあるんです。このアインシュタインの言葉は、アインシュタインが来日した時に述べた言葉なんです

そして、その当時非常に有力なカイゾウという雑誌があったんですが
アインシュタインが日本に来ている間、一ヶ月以の間にカイゾウというのは4回増刷してるんです
その第3版と第4版にこの言葉が載ってるんです

それはどういう事か
カイゾウという会社の雑誌社の社長に対してアインシュタインがこういう書簡を送ってきたんです
それをカイゾウが誌上に載せたと、いう事なんです
ところが、これを全然調べもしないでそんなの全部嘘だと言ってる人達がいるんですが、そんなもの国会図書館に行って調べりゃ分かるんです。調べた人がいるんです、あったんですちゃんと。
この言葉アインシュタインの言葉から分かるように、彼は言外(ゴンガイ)にこう言ってんです

ニッポンこそユダヤの正当な後継者であると、いうことを言外に言ってる
そして、天皇こそがユダヤの王統を引き継ぐものであると、いう事をユダヤという言葉を一言も使わずに言ってるんだと僕は思います。だからこそこんな風に、尊い国であるという事まで言ってる。ユダヤ人にとって尊いから尊いと言ったんだと考えます
2024-03-15 07:10 Permalink
2024-03-15 2009.11.21 京都講演会「日本」(3)


という事でここまでは普通に教科書に書いてある話です
僕も教科書以上の事は言ってません
これからは、教科書に書いてある事を次から次にひっくり返します
えー、ちょっとショックを受ける
また、どうしても納得できない
心情的に許せない
色んな意見があると思います
嘘であって欲しいとか、根拠なく否定してやるぞとか
色んな意見があると思いますけども

ここにあります
ニッポンの古代ユダヤ痕跡
あのー趣味のある方は、日本と古代のユダヤとの関係を色々お調べになったと思うんですが
混沌としてなんだかさっぱり分からない、意味不明な事ばっかりなんですね
で、まずですね僕が具体的にこういう類似点がありますよというのをアトランダムにあげてみます
脈絡なく、
まず、さっきもちょっと動画であったんですが
京都の祇園祭りで出てくる山鉾のタペストリーの中に色々旧約聖書に関わる部分が出てくるんです
創世記の記載を刺繍にしたものとか、出てくるわけですね
なんでこんなものが出てくるんですかと
いう事で、祇園祭りの山鉾行幸なんとか委員長いう方がいらっしゃる
その方に聞いたわけです。なんでこんなにユダヤと関係があるんですか、共通点があるんですか
その委員長ですよ、お祭りの責任者はこう言ってるんです
これはユダヤ教のお祭りです。
要するに、これは祇園祭ではなくて、シオン祭りなんですと
本人がそう言ってる、祇園祭の総責任者がそう言ってるんですね
これユダヤ教です全部同じです
そうなんです同じなんです、祇園祭りはシオン祭りなんです
八坂神社は、アショカ神社なんです

長野の諏訪湖のほとりに諏訪大社という有名な神社があるんですが
そこでは2つとても重要なお祭りがあります
ひとつは御柱祭り
御柱祭りというのは、山奥から大木を切り出してきて
それをみんなでもって引っ張りだしてきて神社に奉納する
そして神社の前にぶっ立てる
で、これと全く同じお祭りが古代イスラエルであったそうです
やはり、山から大木を切り出してきてそれを神殿に奉納する
その意味というのは大木自身が神であるという認識があったんだそうです

そして、もうひとつ御頭祭というのがある
御頭祭というのは、どういう事をやってるかって言うと
諏訪大社でやってるのは、柱に少年を縛り付けて
それで神主さんが刀を取り出してその少年を刺して生贄しようとする、こういう儀式があるんです
そうすると別の神官が現れてきて止めるというのがお祭りなんですって

で、これは、実は旧約聖書に出てくる、イサク奉献伝承と言いまして
ユダヤ民族の始祖であるアブラハムが神から命令されて
あなたの息子を捧げなさいと言われたんだと
アブラハムとしては神に忠誠を誓うために
自分の息子をモリヤ山の頂上に連れて行って
そこで刀で刺して、生贄にしようとしたと
それを天使が上から降りて止めたと

同じなんだよこれ
つまり、諏訪大社のお祭りは旧約聖書のアブラハム、イサクの伝承なんです
そのものなんです
そして諏訪大社ってのは面白い所で、諏訪大社のご神体は、守屋山という山なんです
それはすぐ隣にあるんです

守屋山というところのモリヤって言うのは実は
ユダヤ教で言うところのエルサレムが乗っかてる丘の事をモリヤサンって言うんです
今でも守屋山と言うんです

何年か前に、イスラエルの神官が日本に調査に来たんですね
日本にイスラエルの痕跡が残ってるかどうかという事で調べに来た
彼らは諏訪大社に行って、その担当者にこう言われたんです
あの山が、守屋山です、
そしたら、その瞬間にも、もーそこでお祈りをはじめちゃった

モリヤというのは神が宿る場所なんです
すべてがモリヤなんです
旧約聖書をちょっと調べて行くと、モリヤというのが何度も何度も出てくんです
つまり、モリヤサンにエルサレムを作ったんです
モリヤサン=エルサレムなんです
それが諏訪大社にあるんです

こっちの祇園祭りの意味不明な旧約聖書のタペストリーは誰も説明出来ないでしょうこれ
これはどう考えたってユダヤ教なんですよ
京都というエルサレムという名前のついた街で行われている毎年行われているお祭りはユダヤ教のお祭りなんです
これを否定出来るならしてみて下さい
総論否定以外にはなにも出来ないはずですよ

さて諏訪大社では、こういう鹿の頭をね、今は数減ったんだけど
元々は75頭分の鹿の頭をお供えする、というお祭りがある
これは御頭祭の時のなんですが
実はユダヤ教でもですね
このイサク奉献のあとに身代わりとして、羊を75頭捧げたという事になってるわけ
全く同じなんだよね。ふざけたほど同じ。

こっから面白い話
これがアーク、要するにセイシツという風に言われてるもので
これはなにかって言うと
エジプトを脱出した時に、ユダヤ民族が長い間、エジプトに囚われていて奴隷として使われていた時に
モーゼが、ユダヤの民よ、エジプトを脱出してカナンの地を目指そうと
イスラエルという国を建国しようと
いう事で、みんなを引き連れて外に出たわけです

で、その時にシオンの丘に行って、モーゼは神から10の戒めを教えて頂いた
これをモーゼの十戒というんです

モーゼの十戒を石板に書いて、それをこのアークの中に入れて運んだと
あのー、こうやって白装束の神官が7人でこうやって常に運ぶと
それ以降エジプトを出てから、イスラエルを改めて建国をするまでの間
ずーっと、こういう風に神官がアークを運んで
その中にはモーゼの十戒を書いた石板が収納されていたと
コトがあるたびに、このアークは物凄いチカラを発揮して敵を倒したと、異民族を排除したと
という事が旧約聖書に書いてあります

さて、このアークなんですが
神道におけるお神輿と同じなんです
そして、ユダヤの聖職者もこう言ってます、神輿というのは要するにアークの事ですと
もちろんね日本中に神輿はいっぱいあるわけじゃないすか、
アークは一個しかないんだから話違うだろうと
要するにこれはイミテーションですね、マネしたんですね
アークをマネして作ったのがお神輿なんです

確かに見て下さい
白装束、みんなで担ぐ、おんなじなんですねこれね
そして、これが実はね面白い、

これ川ですヨルダン川、
こっちがヨルダン川、ヨルダン川が途中で途切れてる
そこをアークが渡ってる
これどういう事かって言うと
最終的にモーゼがエジプトを出てから、40年間さまよってのちに
ヨルダン川を渡ってカナンの地にたどり着いて
イスラエルを改めて建国したと、いう事になってるわけです
その時に、このアークを先頭にして歩いて行ったら、ヨルダン川が突然自分で勝手に塞き止まって
川底がパッと見えて、そこをみんな渡って歩いて渡る事が出来たと、いう事が書いてあるわけですね

これを、アーク・ヨルダン川を渡る、と
いう風に簡単に言うわけなんですが

実は僕の名前
輿というのは、アークなんですね、お神輿です
水はウォータ、ウォータってのは、時として川なんですね

つまり、
私の名前は、アーク・ヨルダン川を渡る
なんです(笑笑笑)

これはちっょとある意味こじつけかもしんないけども

ね、ながーい間、知の先生に色々といじめられてきた
あのー、ニューヨークのユダヤの人達は
わたくしのフルネームが、そういう意味をもってるという事を知ったらば
愕然とすると思うんです、
2024-03-15 07:09 Permalink
2024-03-15 2009.11.21 京都講演会「日本」(2)

で、実はですね、この時点で人間も全部変わってます
縄文時代ニッポンに住んでいた人間の数は25万人と言われています
それが弥生になってから一気に100万人に増えています
その時に実は、人種すら変わっちゃってます
その増えた100万人というのは、
実は75万人は、外から入って来たんです
そして混血がなされた上で、新しい弥生人というニッポン人が生まれたんです

だから縄文人の血は受け継がれているんです
縄文人と新しく渡来した人達が混血した結果、我々の先祖が作られたんです
そして、ここにいらっしゃる皆さん
普通は日本人の方だと思うんですが
中には統一教会の方もいらっしゃると思う(関係ねーか、それは)

統一教会の方も日本人の方いらっしゃいますんで、ちょっと失言しました
我々実は弥生人なんです
我々は縄文人の血を引いてるけども、弥生人なんです
ま、そのー、別に原始人って意味じゃなくてですね、人種的にですね

さて、縄文時代っていうと
とにかく鉄器が入ってきた、青銅器が入ってきた
そして、農耕文化入ってきた
これによって、急激に人口が増えた
それ以外にどんな変化があったかというと
争いが生まれた
実は縄文時代までは、我々ニッポン人はほとんど争った形跡がない
普通は何かモノを取り合ったりして、争って人が死んだりしてるはずです
全然見つからない
つまり、縄文時代の長い長い間、本当に平和だったニッポンは

全く争った形跡がない
それが弥生時代になったら急にチャンチャンバラバラ
当然そうです、農耕、稲作、当然水が絡んできます
水を奪い合う争いが発生しました、これが集落と集落の戦いに発展します
そこでやはり戦って傷付いて死んだ人とか、いう人達の骨が見つかっています
つまり弥生時代というのは戦争の始まりでもあったんです。残念ながらね

さて、これは、まだ平和だった時の縄文時代
住居があって、一部畑や樹木の、例えば果物なんかの森があって
そしてゴミ捨て場があって
食べたものカラは全部ゴミ捨て場に捨てると
で、そのゴミ捨て場というのは今現代では貝塚と呼ばれています
貝塚っていうのはゴミ捨て場だったんですね

じゃね、縄文人ってのは一体どんな顔をしていたのか?
縄文人ってのは、あきらかに今の現代人とは違う顔をしていると
つまり我々は先ほど言ったように弥生人であるから
縄文人とは違う、
じゃそのオリジナルの縄文人、
現日本人であるとこの縄文人はどんな顔をしていたかというと
実は、結構毛深くて、鼻が高くて、目が二重、なんですね
これって不思議なんですよ
非常にその地球の温度の低かった氷期の一番最後の頃に日本に渡って来た人達だから
寒い所から来てるわけです
寒い所から来たという事は、本来ね寒い所で生まれた民族というのは
一重なんです目が小さいんです、鼻が低いんです鼻が高いと凍傷になるから
で、毛が薄いんです毛が濃いとこの辺全部氷がついちゃって凍傷になっちゃう

だから本来はそーゆー顔をしてないはずなのに、こんな顔をしてるわけです
見れば分かるようにアイヌです
実はアイヌの人達は、縄文人のDNAを深く受け継いでる
縄文人そのものではないけど、少なくとも我々よりは、はるかに縄文人に近い人種なんです
見て下さい、二重まぶた、髭ボーボー、鼻高い、
昔は、おそらくね、大正時代ぐらいまでは、アイヌ人ってのはヨーロッパ人だと思われていたんですって
目も青い人がいっぱいいるし
確かに顔を見ると、この辺の二人なんてのは白人と言われても納得出来るような顔をしている
ところが実はこれが縄文人に近い
おそらくこれに似た顔をしていたであろうと

という事はどーいう事かっていうと
たまたまこの人種が発生した時
たぶん地球はあったかかった、
で、こういう顔で種族が形成されたあとに
寒くなってきて、しょうがないから南のほうにだんだん降りてきて
結果的に日本列島に住みついたけども
元々はあったかい時に生まれたから
所謂熱帯に順応したDNAをもって生まれた、
という事であろうと思われます

そして、何を食べていたか?
縄文人が食べていたもの、というのを調べてみたら
なんだ全部僕の好物ばっかりなんですね

あのねー、春は若草、あさり、はまぐり、木の芽、うさぎ
ウサギは僕は食べないで飼ってるほうなんですけども

それから夏にかけては
トドに、アザラシ、シジミ、カツオ、はまぐり

秋にかけては
マグロ、ぶどう、マス、鮭、椎(の実)とか、栗とか、どんぐりの類

冬は
クジラに、鹿に、イノシシ、

非常にバランスの取れた季節季節に応じた食生活をしていたんです
これはいいですね。好きなもの一年中食べれて
争いはなくて、これホント理想的です
僕ね縄文時代行ってみたい、出来たら縄文時代に次回は生まれたいと思っています
これ最高
まずね、争いが無いってのがいいでしょ?
今みたいにな、いやらしいその謀略とか陰謀なんかない
毎日毎日が本当に安定した落ち着いた生活
ただし一個だけ問題がある、あんまり長生き出来なかった、
やっぱ疫病、ウイルスや細菌に対する備えが無かったから
平均寿命30歳
けどま30歳まで生きれればいいかな

そーいう時代があったあとに弥生時代がきたわけですね
稲作というものが生活の中心だったわけです
なんか今こうなってくると、ここまで来ちゃうと
なんか今のちょっと田舎のニッポンの農家の風景とあんまり変わんなくなってくる

という事で、2枚目
ま、こういう風に囲炉裏みたいなのがあって家族団らんをしていたわけです
これが弥生と縄文人の骨格の違いを現しています
ね、やっぱり顔が長い、そして鼻が低い、これが弥生人の特徴
つまり、のっぺりしていて、鼻が低くて、目が細い
これは寒冷地で生まれた種族なんです
鼻が高いと鼻が凍傷になっちゃう、
目が大きすぎると目が冷気に触れる
そういった事で寒い所で、もしくは寒い時期に生まれたのがこの弥生人の先祖であると
この人達が入ってきて、この元からいた縄文人と意外とすんなりと順応して混血してると思われます
ただ人数的には4対1くらいの差があったから、従ってこっち(弥生)の血のほうがずーっと強い

ただし我々は純粋な大陸から来た弥生系の民族ではない
やっぱりこっちの(縄文)血が入ってるから
いまだに我々ニッポン人は大陸の人とは若干違う
我々と韓国人は、やっぱあきらかに違うところがある
それは、こういう事であると思います

これは骨格なんだけど、皮を剥ぐ前はこうだったと
これが弥生人、髭ボーボー。目がおっきい。鼻が高い
こっち縄文人、こっちが弥生人、なんか今でもどっかにいそう感じでしょこの人はね
ま、こんな感じですね
今の現代の日本人にとてもよく似ていると思います
目もそれほど大きくはないけど、それほど小さくもない、ちょうど中間くらいみたいな

分布からいうと、渡来系、大陸から来た弥生人というはやっぱり九州とかこの辺に多い、みられる
そして元々いてゆっくりと弥生人と混血した縄文の血の濃い人達は、やっぱこっちに東北とか、こちらに多いそうです

これは部落同士で争ってる絵ですね
やっぱり稲作が絡んでますんで
凶作の年もあったでしょう
そういった時は水の取り合いとかいった事でイクサになったそうです
嫌ですね。稲作と一緒に争いが入ってきてしまった
平和なニッポンという国に
2024-03-15 07:08 Permalink
2024-03-15 2009.11.21 京都講演会「日本」(1)


今日は京都です

タイトルは日本、という事です
この地、京都というのは平安京ですね
平安京というのは、ヘブライ語ではエルサレムと言います

私どもは、このエルサレムの地でニッポンについて改めて研究してみたいんですが
今日私が展開する話の中で
2つの大きなトピックが出てきます。
そして、その2つの大きな仮説に対して、猛烈に反発する人達がいます
それは、もー、わかっています。

そこには利害関係があるんです。
おそらくその人達は、頭ごなしで、頭ごなしに、総論否定をしてくると思います。
つまり、具体的な反論をするのではなくて、総論的に否定をする

つまり、それしか否定の方法がないような話が今日出てくると思います
ただし私の立場から言わせて頂ければ、今日の話はあくまで仮説です
これが真実かどうかは私にも分かりません。
しかしながら
真実に近い仮説というのは、物事を合理的に説明するんです
今日は私の話が、どれほど皆さんを納得させるか
それ次第によって、この話が真実であるかどうかを、ご自分で判断なさって下さい

それでは始めます。

ニッポンの話をする時に、46億年前にさかのぼる必要があるかどうか
地球が出来たところから話を始めると、たぶん最初の1%ぐらいで終わっちゃいそうだから
そこはちょっとはしおります

で、一応ですね、ニッポン列島が出来て、人間らしきものが住み始めたぐらいから話を始めましょう

という事で、
話の流れから言うと
旧石器時代というのがあるわけですね
旧石器時代は、一応人間らしき人達がニッポン列島に住んでいました

その人達は一体どこから来たのか?
日本で生まれたわけじゃない
どこか、大陸にいて、そこから海を渡って
ないしは凍った海を歩いて、ニッポン列島に渡ってきた。

おそらく、こんな人達であったろうと
なんか、毛むくじゃらで、髭が濃くて
目が大きくってと
いう事を、なんかこの絵を描いた人はイメージしたみたいです

実際おそらくそうだったでしょう
北の寒い所から来た人達なんですが
何故か、北には順応しないような大きな目をしていて
毛が濃くて、鼻が高くてと、いうのがどうやら本当だったようです

さて、そのあと、旧石器時代のあとに来たのが
縄文時代です
旧石器時代と縄文時代の大きな違いは、定住したかどうかです
縄文時代において、ニッポンに住んでいた旧石器時代の人達は
ある程度、定住をして、そこでもって狩猟生活をしたり、一部は栽培もやっています
農業とはいかないけども、例えば、非常に大きくて中身の濃い栗ばっかりを選んで、その栗を植えて
そこから栗の実を得ていたと、いうなことが、ある意味の栽培ですね、といった事もやってました
それが縄文時代という事で
それまでの所謂狩猟生活とはあきらかに違う生活形態です

じゃそれまでの狩猟生活、なにを狩猟していたのか?
これです
マンモスだの、大鹿だの、そういったものが、
この大陸から、凍った海峡を経由して、北海道のほうに象が渡って来た

で、こちらのほう。
対馬海峡の所は、まだまだ海が残っていたけども、
実は凍っていたんで渡れちゃったと。いう時代があったわけですね

その時代に、南からはナウマン象が、北からマンモスが。
日本列島に入ってきた、
で、その象や鹿を追いかけた猟師達が一緒に日本列島に入ってきたんです
これが旧石器時代の人間なんです。

じゃーね、えー、まー、そういった事で。
彼らの主食は象、
象ってのは食べた事ないんで分かんないんだけど、ウマイどうか分からんけど
まー、あの当時は、たぶんウマイもの選んで食ってる場合じゃなかったんだと思う
とにかく、取れるもの取らないともうホントで餓死してしまうような時代だったと思います

で、その当時、石を砕いて、それを武器にしたと
これを槍の先にくっつけたりしたりして、象と戦ったり
落とし穴に象を追い込んで捕まえたり、
もしくは、崖に追い詰めて、崖から落ちる事によって、その動物を狩る
動物の狩りをしたとか、色んな方法があったようです

で、その当時は、移動生活ですので、
定住するための家はなかった
どんな所に住んでいたのかというのを
学者の方が想像して、たぶんこんな所に住んでいたであろうと
いう風に想像されています

僕はこの形をみて、ありゃ、どっかで見たな
これはモンゴルのパオです
なにも変わらない
おそらくモンゴルのパオみたいな所に住んでいたであろうと

で、考えてみれば、モンゴルの民も定住してないんですね
要するに、放牧、羊だのラクダだのと一緒に移動しながら生活をしていた

旧石器時代の人達は象を追いかけて移動をしていた
その違いはあるにしても、なんだか非常に似かよってるなーと

元々彼らはどこから来たかというと
今のバイカル湖の南あたり、っていうとほとんどモンゴルなんですよね
要するに、この辺りにいた、民族が旧石器時代に日本に来ているんではないかと
で、今でもこの辺に似たような人達がいるわけです
こういう状況なわけです

旧石器時代は意外と日本人はあまりよく分かってないんだけども
かなりの所謂文化に近いものがあったであろうと、考えられます

これは、マンモスの子供
マンモスの子供がシベリアの凍土を掘ってみたら出てきたと
このマンモスの仲間がニッポン列島まで来ていたであろうと

どこだっけ
長野に野尻湖があって、そこではナウマン象の骨が見つかったりしてます
実際だからこういった形でニッポンにも旧石器時代があったんだと、いう事が今では定説になっています
この辺は別に知の先生も異説を唱える気は今んとこはありません、将来は分からないけど

という事で
そのあとに来るのが大事ですね縄文時代
縄文時代というのは、紀元前3世紀までの約1万年を示します
非常に長い間、が縄文時代だったんです
実はこの縄文時代っていうのを
イスラエルの歴史で見ると
紀元前722年に北イスラエル王国が滅亡してるんです
その頃ニッポンは縄文時代だと
向こうはすでにねイスラエル王国があったんだ
こっちは縄文時代
そのくらい差があった

という事は、紀元前722年に滅亡した時に
流民となったイスラエルの民は、
さてどこへ行ったんでしょう?かと
いう話が必ず出てくる

そうするとイスラエルの失われた10支族
の、行方がどうのこうのと、いうとこに結びついてくるんです
確実に結びついてきます、今日のあとほうでお話します

で、縄文時代というのは1万年
そのあとに来るのが弥生時代
今度この弥生時代ってのは、縄文時代とどこが違うかっていうと
これは明白、農耕、農業、
弥生時代に入ったらば、人間は今までそれまでやっていた狩りではなくて
水田を作って、そこに稲を植えて、そこから得たお米でもって生きて行くと
いう全く違う形態に変わったんです
2024-03-15 07:07 Permalink